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「東北大学医学部第二内科カンバン物語」

平成23年2月
日下 隆 先生著(昭和48入局)


今回、東北大学医学部、腎・高血圧・内分泌科に「伊藤内科教室」なるカンバンが掲げられました。ホームページで拝見するとカンバンの一番下に「日下隆先生寄贈」とあり恐縮しております。これを機会に旧第二内科に掲げられたカンバンの歴史について知る限りのことを書いてみたいと思います。
東北大学医学部第二内科教室初代教授は加藤豊治郎教授でした。父千太郎は昭和12年東北大学医学部を卒業、直ちに加藤内科に入局しましたが(その折の記念写真①昭和12年5月撮影、一部のみ拡大)、この写真は加藤内科医局入り口に医局員が全員整列し教授を中心に撮影したものです。

国旗のさおが交差した関に「室教科内藤加」とカンバンがかかっているのが読み取れます。写真②は昭和20年第二代中沢房吉教授時代のものです。戦時中なので医局員が極端に少なかったことが推察されます。中沢教授の左に父千太郎が、右に板原先生(初代脳神経内科教授)が写っています。この写真では「室教科内津中」のカンバンが明らかに読み取れます。

記念写真①

記念写真②

以前の大学病院は玄関から北六番丁まで長く伸びた中央廊下があり、それに枝葉が伸びるように各教室がありました。中央廊下を曲がると最初に外来があり、病室があり、その奥に研究室がありその先に医局員が出入りする出入り口(医局の玄関)がありました。何で若い?者がそんな昔のことを知っているのか不思議に思われる先生も居られることと思いますが、私は北四番丁85番地(大学病院の旧住所)が出生地で、小学6年の時、大腿四頭筋短縮症治療の為整形外科に入院、中学2年の時、下腿骨髄炎でやはり整形外科に長期入院したり(始め整形に病室空きが無く父のつてで中沢内科ズブアクに特別入院、骨折患者が中沢教授の総回診を一度だけ受けたことがありました)、昭和44年冬、第二内科研修中に「青医連学生が攻めて来る」とのことで第二内科のカルテ隠しのお手伝いをしたり、阿部圭志先生等と夜警をしたことなどがあったからです。父からも随分第二内科のことは聞かされていました。昭和50年、吉永内科が始まって早々、新研究棟医局に火が回り、旧第一外科病棟に疎開した経験のある先生方は比較的容易に地理的状況がご理解頂けると思います。その後旧第二内科の研究室はカンバンがはずされ暫く医学部図書館として使われていました。

以前のカンバンは銘木に彫りを入れた文字部分は確か緑色に色づけされていたもののような記憶があります。カンバンを掲げた医局の建物は始め2階建てでしたが、工事のレベルが低く雨漏りがし、何度修理してもラチがあかず、その対策とし更に屋根を重ねることで3階建てにしたと聞いています(父千太郎からの伝聞)。その後神経内科の教授になられた某先生を交え、通称「3階劇場」などと称し大人の8ミリ映画館がよく開催されたとも聞いています(某先輩からの伝聞)。

二代目教授は中沢房吉教授です。私が古川市立病院(現大崎市民病院)で初期研修をしていた時、定期的に入院患者さんのご診察に見えられ、父との関係もありましたので、ご診察には必ず出席するようにしていました。ご診察が終わると成川二郎院長が「一席」を何時もの鰻店に設営し第二内科出身者がお相伴することになっていました。中沢先生はお相撲がお好きで、診察日が大相撲の場所と重なると、鰻屋の小さなTVをご覧になりながら鉛筆をなめなめ、誰が勝った等と小さな紙に星取り表をお書きになっておられました。私は第二内科入局前の身でしたが「君はわしの孫弟子だ」と可愛がられ、色紙に「正受」(中沢教授の弟子の会は正受会と言いますが、此処から取ったもので禅の言葉だそうです)とご揮毫頂きました。後で聞いたら沢山御礼をするのが通例だそうでしたが、「孫揚子」の特権を利用させて頂きタダで済ませました。

前置きが長くなりましたがそのようなわけで、第二内科医局入り口には、加藤内科、中沢内科、そして鳥飼内科のカンバンが掲げてありました。昭和48年に吉永先生が第二内科を主宰することになりましたが、名称は第二内科でした。これまで色々聞かされた立場として、どうにかして師匠の名前を出したシンボル的な「吉永内科教室」なるカンバンを掲げる機会が無いものかと考えていました。学位を頂いた時がチャンスと考え、当家に保存しである棒(ケヤキ)の木材を(伐採当時の写真③、太さを見て下さい、青葉通りの50年程度の棒とはわけが違います)出入りの大工さんにカンバンの大きさに作らせ(棒は堅いので大工さんが欅が直ぐ切れなくなるので嫌がる)、ご揮毫頂くのは初代の加藤名誉教授は既に故人でしたので、やはり中沢名誉教授しかいないと考え、ご自宅に伺い(ご自宅に伺うのも名誉教授から孫弟子と言われていたので、少々気分的には楽でした)、「吉永内科教室」との揮毫をお願いしました。

記念写真③

思いがけないほど早く医局の井上さんから(知っている人も少なくなったでしょうが)中沢先生から「出来たよ」とのご連絡を病棟で受けました。急いで家に帰りネクタイを締め中沢先生のご自宅に伺ったところ、家中「吉永内科教室」と書いた紙だらけで奥が見えない程でした。その時おっしゃられたのは「最初に書いたのが一番良かったヨ」とのことでした。それが教室に掲げてあったあの「吉永内科教室」のカンバンです。同じように阿部圭志教授の時には「阿部内科教室」とご揮毫頂くために、カンバン板を鳥飼名誉教授にお願いしに行きました。泉ケ丘クリニックからご自宅までお送りした時、「この自動車はハンドルが左側についてますネ、なんと言う車ですか」とのご質問がありました。「BMWと申します」。すかさず「BMWとはどのような略語ですか」。この辺りから「赤ベン*後述」のイメージがちらつき始め冷や汗タラタラ。「Bayerische MotorenWerkeで御座います」、答えたとたん「バイエルンの自動車工業所ですネ」と直ぐに日本語に翻訳して下さいました。赤ペン会(鳥飼教授の弟子の会)の先輩方が如何に鍛えられたかがこの時よく分かりました。今でもあの時即答出来て良かったナと思っています。さて、此処まで来て「伊藤内科教室」のカンバンを作らないわけにはいかないと考えました。今度は吉永先生にお願すベく、風呂敷に包んだカンバン板を東北労災病院院長室に運び揮毫をお願いしました。実はお願いした私が受け取りに行く前に、医局の後藤君が受け取りに行ったらしく、私は実物を未だ拝見しておりません。その後、諸般の事情で暫く掲げられることがありませんでしたが、今回やっと日の目を見る事になりました。第二内科カンバンはそれぞれ二代前の名誉教授のご揮毫が三代続きました。やっと肩の荷が下りた気がします。第二内科で受けた医師としての心構えは「何事も粛々と行なうべし」です。
この伝統を脈々と次の世代に伝えていく必要が有ります。それがこの教えを受けたものの義務と思っています。
あとどの位やれるか分かりませんがもうすこし頑張ってみたいと思います。

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