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「永親会の名の起こり」

平成23年10月
日下 隆 先生著(昭和48入局)

東北大学医学部旧第二内科では年に一度向窓会が楽しく盛大に行なわれています。
一方、それとは別に各歴代教授にご指導を頂いた同窓が集まり、それぞれの「弟子の会」が開かれています。私達にとっては取り立て不思議なことではありませんが、どうもこの辺が他科の教室員から見ると不思議で仕方ないようです。ちゃんと年に一度同窓会が行なわれているのに、「どうしてそれぞれの歴代教授毎に同窓の一部が集まり別に会を開いているのか?同窓会が割れているのではないか?」などと小耳に挟んだこともありました。そんなことはありません。第二内科出身者は何事にも「粛々」と事を運ぶのです。
さて、旧第二内科は初代の加藤豊治郎教授、二代中沢房吉教授、三代鳥飼龍生教授、四代吉永馨教授、五代阿部圭志教授、そして現伊藤貞嘉教授と続きます。そしてそれぞれ弟子の会が行われています(初代の加藤豊治郎教授と現職の伊藤教授は除く)。初代の加藤教授には弟子の会はありませんでしたが、二代中沢教授以降は、それぞれ弟子の会が続いています。中沢教授には「正受会」と言う弟子の会がありました。どうして正受会と言うのかは資料①をご参照下さい。

資料①

資料②

又、資料②は中沢教授ご自身、正受会会員拡大に努力をされたような手紙です。文中、貴兄とは父千太郎のこと、安田久とは元石巻赤十字病院長のことです。この手紙は「(大石先生は初代加藤教授の弟子ですが)大石武一君(旧第二内科助教授、その後代議士に転じられ初代環境庁長官や他の省庁の大臣などを勤められた)も正受会に入会しているので、君(父千太郎)も会員になりなさいヨ」と読み取れます。父は以前から「俺は初代加藤教授の弟子だ」と言っていましたが、既に中沢教授はその気持ちを見抜いておられたような文面です。その後、父は素直に正受会に出席していたようです。鳥飼教授の弟子の会は「赤ペン会」と言い、鳥飼教授が総回診とは別に看護室にお出でになり、赤色インキによるカルテ書き込み回診をされたことによるものだ、と聞かされています。
今回も文章の前置きが長くなりますので、本論の「永親会の名の起こり」に入ります。
私が現役医局員だった頃、医局員と先輩諸先生との関で、先輩と顔の見える交流を深めよう、などと実にもっともらしい口実を作り、年に一度表蔵王国際ゴルフクラブで吉永杯ゴルフ大会が行なっていました。大会は吉永先生の教授在職期間と同じ19回の長きに渡り行なわれました。吉永先生はご自分でゴルフをプレーされませんでしたがほぼ毎問ご出席され、ご自分でご寄贈された吉永杯ゴルフ優勝カップの授与をされていました。資料③

資料③

大会10年目の時、「今回大会で優勝した先生は吉永杯優勝カップを取り切りにしよう」と先輩どなたからの提案があり大いに盛り上がりましたが、大会10 回目にして初めて参加された棲井豊先生に優勝カップを持って行かれました。吉永先生は、同郷の後輩に持っていかれたので、納得されたようにニコニコされていました。勿論、吉永先生には次回からの新優勝カップをご提供頂きました。
会が終わり仙台までのお帰りはいつの間にか私が行なうようになってしまいましたが、現医局員の立場で教授を自分の車にお乗せしお送りするのは大変緊張したものでした。狭い空間に仙台のご自宅までの約一時間弱、全く黙りこみ喉がカラカラ乾くのを我慢しながら運転するのも大変ですので、何がしかのお話をしました。ある時こんなお話をしたことがありました。父からの伝聞ですが、父が初代加藤教授のカバン持ちをし何処かに行った時、加藤教授はフト「中沢君は弟子の会があっていいナ」と洩らされたことがあったと聞いています。そんな父の話が耳に残り、ある年の吉永杯ゴルフ大会の仙台までの帰路の途中、「先生がご退官されたら先生の弟子の会を作りますので、会の名称を考えていて下さい」と、あと退官まで10年以上もある先生に今思うと随分大胆な発言をしてしまいました。月日は過ぎ去り大学病院の青年医師もオジサンの仲間入りをした頃、吉永教授のご退官事業が盛大に行なわれました。ご退官事業が終えると直ぐに「吉永教授弟子の会」設立に動き出しましたが、まず「✽✽会」と名称をつけなければなりませんでした。ご退官の時、先生から退官記念メダルを頂きましたが、そこには「如流水」とあり、発起人達は「流水会」で決まりだナと思いつつも、吉永先生ご、自身から直接伺った名称ではないので、一応、直接名称を頂くべく「アノー」とお伺いを立てたところ、内心「流水会」とのご返事を頂くものと思っていた一同に「永親会、吉永に親しむ会に致しましょう」とのご回答がありました。勝手に「流水会」と思っていた一同大変驚いたものでした。発起人の一人、鈴木隆城先生は、俺は吉永内科一期生だと誇っていました。なぜなら俺は①吉永内科に昭和48年正月早々一番最初に入局した、②研究室は一研に入った、③野球は一番を打った、④そして一塁を守った、と言います・・・分かった分かった。吉田克己先生にはこれまで永親会事務局を長らく担当して頂きましたが、平成23年4月から星陵地区を離れるとのことで、超多忙人間佐藤博先生に無理やり事務局を担当して頂くことになりました。快くお引き受け下さいまして有難う御座いました。佐藤牧人先生には会営について色々アドバイスを受けております。山陰敬先生や木下康通先生は実にスムーズな会の進行をして下さっています。開催期日は斉藤喬雄先生の「2月は学会が少ないので、なるべく多くの弟子に集まってもらう為、2月にしましょう」で決まりました。私、日下は永親会開催当日、開会宣言と社会常識を逸脱した会計報告(何時も無監査なのに拍手を頂き恐縮しております)を行なっています。一方、引き続き教室を担われた阿部圭志教授の弟子の会は「向志会」としてこれも盛大に行なわれています。
これが「永親会」名称の名の起こりとその後です。来年2月は永親会20週年の記念すべき会になります。多くのお弟子さんが集まり盛会になることが予想されます。吉永先生には奥様共々益々ご健勝で過ごしになられ、我々一同がより良き医師となるべく引き続きご指導下さいます様お願い申し上げます。

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